北海道新聞社は2017年、前身となる「北海新聞」(札幌市)の創刊から数えて創業130周年を迎えました。明治時代から、北海道をはじめ、国内外のさまざまな出来事を伝えてきた北海道新聞の歩みを写真で振り返ります。
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1887年(明治20年)1月20日、現在の北海道新聞本社がある中央区大通西3丁目で「北海新聞」第1号が発行されました。タブロイド判4ページの週刊でした。同年10月に「北海道毎日新聞」と改称し、1901年(明治34年)、「北門新報」「北海時事」の2紙と合併し、「北海タイムス」が誕生しました。
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戦時中の1942年(昭和17年)、北海タイムスや「新函館」「旭川新聞」など、道内の11紙=写真右=が統合され、11月1日に「北海道新聞」が創刊されました。こうした動きは、言論統制などを目的にした国の「1県1紙」政策によって全国で進められました。
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創刊当時の赤れんが社屋。1922年(大正11年)に北海道初の鉄筋コンクリート建物として建設された旧北海タイムス社本社が北海道新聞の札幌本社となりました。写真左側の塔のある建物が大通公園側。写真右は北1条側に印刷・発送部門棟が増築された1954年当時のものです。
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ここからは、昔の新聞づくりの様子を順を追って紹介します。まずは「文選」作業。鉛製の活字を1文字ずつ手で拾い、版を組み上げている様子です(1960年ごろ)。棚に並んだ活字=写真右=は、使用頻度によってその数が違っていました。
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鉛活字を並べた組版や写真版を配列して1ページの紙面に組み上げる「大組み」作業。見出しやレイアウトを決める整理記者と活字を並べる担当者が二人一組で行っていました。
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出来上がった大組みに耐熱性の厚紙を押し当てて「紙型(しけい)」が出来上がったところ。紙型を近くで見ると=写真右=、でこぼこしているのが分かります。これを半円形にして溶けた鉛を流し込み、鉛版(えんばん)を作ります。
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鉛版は円筒を半分に切ったような形をしています。重さは17.5キロ。これを二つ合わせて輪転機の回転部分に取り付け、高速回転させて紙に印刷しました。写真右は、鉛版を鋳造している様子です。
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新聞紙を印刷する紙は「巻取紙(まきとりがみ)」と呼ばれ、直径1.2メートル、重さ1.4トンで、巨大なトイレットペーパーのような形状です。紙を伸ばすと長さは19キロメートルにもなります。昔は、台車に載せて人の力で工場内を移動させていましたが、現在はコンピューター制御の無人搬送台車で運ばれ、自動で輪転機に装着されます。
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電話もファクスもなかった時代には、写真や記事を取材現場から本社に運ぶために伝書鳩が使われていました。北海道新聞社も、昭和30年ごろまで本社屋上でハトを飼っていました。
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写真右と同左上は、戦後の報道用カメラの代表格として全国の新聞社で使用されていた外国製の大型カメラ「スピードグラフィック」です。「スピグラ」の愛称で親しまれました。固定式のストロボ装置は、撮影の度に発光バルブ(電球)を交換していました。新聞社カメラマンのステータスでしたが、一眼レフカメラの登場とともに徐々に姿を消しました。 右側のスピグラは1958年(昭和33年)に旭川支社が購入したもので、大雪山の遭難取材などで活躍しました。
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1991年まで札幌本社の社会部で使われていた六角形の特製机です。原稿をチェックするベテランの「デスク」たちが陣取り、本社や支社、支局から集まる原稿の直しや問い合わせの作業に追われました。大きな事件・事故があると、机の周りにはデスクや大勢の記者が集まり、大声で叫びながら作業をするという、緊迫感漂う状況でした。現在は北広島市にある印刷工場内の見学エリアに展示されています=写真右=。
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新聞製作は時間との勝負。フロアが異なる編集局と制作局の間で、迅速に原稿などをやり取りするために使われていたのが気送管(エアシューター)です。記事原稿や写真を入れた筒状の容器を管に挿入し、圧縮空気の力で相手方に届けていました。作業の近代化とともに役目を終え、2010年ごろに姿を消しました。