明治時代から、北海道をはじめ、国内外のさまざまな出来事を伝えてきた北海道新聞の歩みを写真で振り返ります。
1.北海新聞、北海タイムス
北海新聞は1887年(明治20年)1月20日、札幌市中央区大通西3丁目で設立された「北海新聞社」から発行されました。タブロイド判4ページで、当初は毎週木曜日発行。同年10月に「北海道毎日新聞」と改称しました。1901年(明治34年)には「北門新報」「北海時事」の2紙と合併し、「北海新聞」の号数を継承して「北海タイムス」が誕生。後の「北海道新聞」へとつながります。
2.統合の歴史
戦時中の1942年(昭和17年)11月1日、「新函館」「旭川新聞」など道内の11紙が統合され、日刊紙「北海道新聞」が創刊されました。こうした動きは、戦時中の言論統制などを目的にした国の「1県1紙」政策によって全国で進められました。
3.終戦の日の紙面
1945年(昭和20年)8月15日付の現存する北海道新聞紙面です。この頃、戦局の悪化に伴い用紙の配給が制限され、夕刊を休刊し朝刊は2ページ。終戦の日、札幌版の裏面は下7段分が空白のまま発行されました。
道新首脳部は、終戦の日が近いという情報をつかんでいましたが、軍事機密を漏らすことはできず、終戦になった場合の記事を事前に用意することは不可能でした。当日の紙面編集担当者であった金森孝愛記者は後年「記事の不足に気づいた時には、もはや緊急の手配が出来ず、やむを得ず裏面の半分を空白にせざるを得なかった」と、振り返っています。新聞は、正午からの玉音放送を待って配達されました。
函館版は裏面を広告や火薬の研究についての寄稿、防空ポスターの記事などで埋めています。
釧路版の裏面。広告や学徒引き揚げ命令などの記事で埋められています。
4.赤レンガ社屋
創刊した1942年(昭和17年)の赤レンガ社屋です。1922年(大正11年)に建設された旧北海タイムス社本社を引き継ぎました。写真左側の塔のある建物が大通公園側です。
5.大通西3丁目社屋(2024年10月まで)大通東4丁目社屋(2024年11月から)
創業の地を離れ、2024年に創成東地区へ移転。ヒト・モノ・情報の交差点として新たな価値を創出し、道民のためのメディアセンターとして新しい北海道新聞社を目指します。
6.昔の新聞づくり
①文選棚
鉛製の活字を1文字ずつ手で拾い、版を組み上げます。棚に並んだ活字は、使用頻度によってその数が違っていました。
②大組み
鉛活字を並べた組版や写真版を配列して1ページを組み上げる「大組み」作業。見出しやレイアウトを決める整理記者と活字を並べる担当者が二人一組で行っていました。
③紙型
出来上がった大組みに厚紙を強く押し当てて「紙型(しけい)」が出来上がります。紙型を近くで見ると、でこぼこしているのが分かります。耐熱性の紙型を半円筒形にし、解けた鉛を流し込んで鉛版(えんばん)を作ります。
④鉛版
鉛版は、半円筒形で重さ約18キロ。これを二つ合わせて輪転機の回転部分に取り付け、高速回転させて紙に印刷しました。
⑤巻取紙
新聞を印刷する紙は「巻取紙(まきとりがみ)」と呼ばれ、直径1.2メートル、重さ1.4トンで、巨大なトイレットペーパーのような形状です。紙を伸ばすと長さは19キロメートルにもなります。昔は、台車に載せて人の力で工場内を移動させていましたが、現在はコンピューター制御の無人搬送台車で運ばれ、自動で輪転機に装着されます。
⑥六角机
1991年まで札幌本社の社会部で使われていた六角形の特製机です。原稿をチェックするベテランの「デスク」たちが陣取り、本社や支社、支局から集まる原稿の直しや問い合わせの作業に追われました。大きな事件・事故があると、机の周りにはデスクや大勢の記者が集まり、大声で叫びながら作業をするという緊迫感漂う状況でした。現在は北広島市にある本社工場内の見学エリアに展示されています。
⑦気送管
新聞製作は時間との勝負。フロアが異なる編集局と制作局の間で、迅速に原稿などをやり取りするために使われていたのが気送管(エアシューター)です。記事が書かれた原稿やプリントした写真を入れた筒状の容器を管に挿入し、圧縮空気の力で相手方に届けていました。作業の近代化とともに役目を終え、2010年ごろに姿を消しました。
⑧古いカメラ
SPEED GRAPHIC(1953年)
アメリカのグラフレックス社が、主に1930年代から1950年代に製造した4×5インチのシートフィルムを使う大判カメラ。機動性の良さから報道カメラとして使われました。人物撮影、現場撮影、スナップ、さらには接写や複写もこなす万能のカメラでしたが、かさばって重量があり、撮影手順が煩雑であるなど難点も多く、35ミリ一眼レフが主流となった1965年頃から徐々に姿を消しました。
Nikon F(1959年、左側)
日本工学工業(現ニコン)が最初に開発した35mmフィルム一眼レフカメラ。操作性と速写性、堅牢性にすぐれ、高品質の交換レンズも多数用意されたことから、世界中の報道カメラマンに愛用されました。ベトナム戦争では、銃弾を受けてもシャッターが切れた、水没してもフィルムが無事だった、など、多くの戦場カメラマンによる神話が残っています。
Nikon F2+MD-2(モータードライブ)装着(1971年、右側)
プロ用機材として一世を風靡したNikon F(1959年)の後継機となる、完全機械式の35mmフィルム一眼レフカメラ。電池無しで使用でき、本体に電気回路を持たないことによって頑丈な作りが実現できたため、過酷な取材現場で威力を発揮しました。付属のモータードライブは秒間5コマの連続撮影が可能で、主にスポーツ取材で活躍しました。
⑨鳩
電話もファクスもなかった時代には、写真や記事を取材現場から本社に運ぶために伝書鳩が使われていました。北海道新聞社も、1955年(昭和30年)ごろまで本社屋上でハトを飼っていました。