戦後間もない1948年創刊を誇る留萌高の名門「留高新聞」が昨夏、15年ぶりに復刊した。かつては全道高校新聞コンクールで最優秀の総合賞を26年連続受賞。全国コンクールで最高賞を2度受賞した実力校だ。復活を担ったのは現2年生の新聞局員3人。不定期で今年3、4月にも発行し号数を222号まで伸ばした。「今後は積極的に地域の話題も盛り込みたい」と張り切っている。

 2ページの復刊号は昨年7月22日付。1面に復刊宣言、2面にはトランスジェンダーを公表する教員の特集などを載せた。この時は98年発行の191号が復刊前最終紙面と考えられ「24年ぶり 192号」としたが、その後の調査で復刊前の最終紙面は2007年の220号と判明している。

留高新聞復刊第2号に向けて図書室の一角で行われた打ち合わせ

留高新聞復刊第2号に向けて図書室の一角で行われた打ち合わせ

 今年3月の同校図書室の一角。「メインとサブの記事の行数が伸びそうだから編集後記は1人数行の一言版にしよう」「ケアンズの場所って分かる? オーストラリア留学の記事には地図が必要だね」―。
 部室を持たない新聞局の局長を務める茶谷倖綺(こうき)さん(17)と田中蓮都(れんと)さん(17)、宮本晄輔(こうすけ)さん(16)は、顧問の大磯裕司教諭(41)と復刊2号目の打ち合わせに臨んでいた。
 留高新聞は、全道コンクール初入賞の1968年から計33回の入賞を果たし、このうち74~99年は26年連続で総合賞を受賞。全国コンクールでも、最高賞の文部大臣賞を74、91年の2回受賞という実力校だった。だが、局員不足などから全道コンクールでの受賞は2002年の特別賞が最後。高校時代は自らも札幌啓成高で新聞局員だったという大磯教諭が、教員となって留萌高に赴任した18年春、同校新聞局は局員も顧問もいない休止状態だった。
 翌年に希望し顧問になったものの、21年度まで入局者は無し。「復刊に向けて留萌高や旧留萌千望高の歴史を調べ、高文連新聞専門部上川支部の研修会に参加し準備を進めてきた」。熱心な勧誘が実って22年度は3人が入局し復刊につながった。
 復刊2号目は新学期に向けたマスク着用の賛否、最新の222号はJR留萌線の留萌―石狩沼田間廃線がトップ記事だ。本年度は1年生1人が加わり新聞局は4人体制となった。次号は7月発刊を目指している。
 1985年から10年間、同校新聞局の顧問を務めた菅野昭浩さん(68)は「かつての新聞局員も休刊を寂しがっていたが、よくぞ復刊してくれた。母校愛を大切に楽しい学校生活の様子を紹介してほしい」と賛辞を送る。
 ただ、全道コンクール応募校数は記録の残る78年以降、80年の101校をピークに減り続け、2022年は33校だけ。菅野さんは「留高新聞の復刊を機に他校の新聞局も活性化し、再び多くの新聞が作られるようになれば」と願っている。

*局員3人 読解力が向上

 地道な取材や編集作業などの新聞製作を通じて復刊を果たした3人の局員。田中さんは「取材から記事化までを通し、情報を正確に伝える難しさを学んだ」。茶谷さんは「多くの情報を聞き出す取材方法を身に付けられたと思う」と話し、宮本さんも「取材でメモを取り、相手の話の要点をうまくまとめられるようになった」と振り返った。
 膨大な情報が行き交うインターネット社会。正しい情報を取捨選択して読み解き、虚報(フェイクニュース)にだまされない情報活用力を養うのはNIE(教育に新聞を)の大きな目的だ。3人は記事を書き手側の視点で読むことにもなって、読解力が向上したと口をそろえた。国語教員の大磯教諭も「3人とも文章を書く力も大きく成長している」と評価する。
 さらに、宮本さんは「今まで新聞の文章だけ読んでいたけど、見出し、写真などに注目して読むようになった」。茶谷さんも「取材対象となるかどうかなど、地元の事柄を敏感に察知するようになった」と自らの変化を実感している。(福元久幸)

15年ぶりに復刊した留高新聞(右)と1948年発刊の創刊号

15年ぶりに復刊した留高新聞(右)と1948年発刊の創刊号