今年開かれたNIE全国大会宇都宮大会(8月1~2日、宇都宮市)と日本NIE学会鳴門大会(10月19~20日、徳島県鳴門市)は共通するキーワードがあった。「国語教育の神様」と称される故大村はまさん(1906~2005年)だ。宇都宮大会ではその生涯について作家の苅谷夏子さんの講演があり、鳴門大会では「大村はま文庫」が特別公開された。新聞記事などを授業で使ったNIEの先達は今もなお輝きを放つ。(森田一志)

鳴門教育大学附属図書館の大村はま文庫の資料を見入る人たち

鳴門教育大学附属図書館の大村はま文庫の資料を見入る人たち

 鳴門教育大学の附属図書館2階の一角を占める学習記録2060冊、実践資料500点、文献1万冊。「大村はま文庫」は98年の生涯の大半を国語教育にささげた一教師の足跡をたどることができる。
 そのほとんどが東京女子大卒業後、1934年(昭和9年)、初任の旧制諏訪高女(長野県)から80年(同55年)に東京都内の公立中学校教諭を退くまで収集した歴史の証しだ。
 圧巻は学習記録だ。戦後教育を模索しながら都内の五つの区立中学校で指導した。生徒自身が切り抜いた新聞記事、定期的に提出した「自己評価表」、新聞読解の手引きなど最長で3年間の成長を示す記録が整理されている。

大村はまさん

大村はまさん

 大村はまさんが教え子たちに一度は返却しながら「預からせてほしい」と願い託されたものばかり。自身が宝物と位置づけ「私の仕事のほとんどは『学習記録』の勉強にあった」と語ったとされる。教え子が「僕の学習記録が出世した」と懐かしむ姿もあるという。
 神奈川県NIE特別アドバイザーで横須賀市立森崎小の臼井淑子教諭はNIE学会大会で立ち寄り「膨大な授業記録が残されていることに感銘を受けました。個々人の読みの深化がノートの隙間から読み取れる」と価値を再確認した。
 この国内でもまれな学習記録は当時の貧弱な紙質事情による劣化を避けるため、原文は別室に保存されている。学習記録に限り閲覧用のコピーも原則非公開。特別公開したことについて日本NIE学会の阪根健二会長(鳴門教育大学大学院教授)は「NIEの先駆者大村はまさんは、新聞記事を使い言葉の力を育てた。それを見ていただきたかった」と理由を話す。
 「大村単元学習」と呼ばれる独創的な授業は課題(単元)の取り組みに新聞や雑誌の切り抜きを使った。個々の生徒の課題や力に応じた教材を手作りし読み書きの力を付けさせる手法で教育界に影響を与えた。
 生前、大村はま全集の編集で本人に接したこともある同大学の村井万里子教授(国語教育学)は大村はま文庫を「大学図書館を特色づける貴重な資料。『研究者の聖地』と言われたこともあります」と意義を語った。昨年度は延べ56人が研究で許可を得て訪れた。

 大村さんは本道とのゆかりも深く母親は札幌出身。父親が札幌市内の学校教諭を務めたことから、幼児期を札幌で過ごした。また1996年4月から1年間、本紙に日本語にまつわるエッセー「言の葉」を連載した。


 

*教え子の作家・苅谷さん講演*宇都宮*大村の実践 混沌増す世界の指針に

 作家の苅谷さんは、大村はまさんの教え子で現在「大村はま記念国語教育の会」事務局長を務める。その講演要旨は次の通り。

亡き恩師の思い出を語る苅谷夏子さん=8月1日

亡き恩師の思い出を語る苅谷夏子さん=8月1日

 大村はまは戦後、新制中学に赴任した。複雑な社会を生きるために、中学生たちに言葉の力を持たせたいと考えていた。
 当初は、蜂の巣をつついたように教室で生徒がはしゃいでいて、お手上げ状態だった。だが、その100人の生徒のために、荷物を包んでいた新聞などで一晩で100の教材を作り、渡した。すると机も教科書もない教室で、生徒たちが静かに勉強し始めたという。これが、大村が教育に新聞を使った最初だと思う。
 教材としての新聞の見極めは厳しかった。記事は時に悲しみや矛盾も内包する。子どもの生活や経験をしのぐテーマは、言葉を鍛えることには向かないと考えた。お気に入りだったのは現役最後の1979年、東京・隅田川の花火大会を報じた記事を比べさせた実践。生徒は人出や船の数などを巡る表現の違いを夢中で探したそうだ。
 大村は戦争への深い後悔と苦悩から中学教師になった。子どもたちにリテラシーを持たせ、一人前の言語生活者にすることが、苦い戦争の反省から立ち上がるエネルギーになった。大村の実践は、混沌(こんとん)さを増す世界を生きる私たちに、大事な指針になるのではないか。